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しばっとクレープ

 俺たちが通っていた私立高校は、田んぼのど真ん中にあった。周りには、ゲームセンターもファミリーレストランもない。それどころか、コンビニすらない。最寄り駅へはバスで三十五分。誰もが認める「ド田舎」だった。
 だから放課後になると、遊びに行くために、わざわざ電車を乗り継いで都内へ出たりしていた。
 あの日、俺たちは池袋で小一時間ほど遊ぶ予定だった。
 一番はしゃいでいたのは、言い出しっぺのアツシだった。
 その当時モデルをやっていた彼は、文句なしに学校で一番の美男子だった。しかも、校則で染髪は禁止されていたが、彼だけは特別に茶髪を認められていた。芋臭いデザインの制服に、綺麗な顔と洒落たヘアスタイルがひどくアンバランスだったのを覚えている。
「マジうまいんだよ。都会に似合わねえ、しわくちゃのババアが店主なんだけどさ」
「ババアなんて言うなよ。お婆さんって言えよ」
 すかさずアツシの言葉遣いを注意したのは、『ポリス』だった。
 本名は高杉だったか高島だったか、忘れてしまった。小さい頃から警察官になりたいと夢見ていたあいつは、警察オタクと言えるほど、警察に詳しかった。『ポリス』というあだ名は、彼の幼稚園時代の友だちがつけたそうだ。つまり、あいつは物心ついたときから『ポリス』だったわけだ。
あの夏、『ポリス』は柔道で国体に出場することになっていた。その日も稽古のはずだったのだが、前から痛めていた足首の調子が悪く、部活の顧問から一日休めと言われていた。当然、俺たちと遊びに出かけるのは内緒だった。
「わーったよ」アツシは肩をすくめた。「とにかく、あの手際の良さとか、焼き加減とか、具のいれ具合とか、もう神がかってんだ。まあ、相当のおババさんだから、そろそろ本当にアッチに逝きかかってるのかもしれねえけどよ」
『ポリス』は盛大なため息をついた。俺も、さすがに言い過ぎじゃないのかと思ったが、アツシの無邪気な笑顔を見ていたら、なんだかどうでも良くなってしまった。
 雑誌ではクールに決めているアツシは、実は無類の甘い者好きで、中でもクレープには目がなかった。そのことを知っているのは『ポリス』と俺だけだった。
それは秘密と言うほどたいそうなものでもなかったが、何か特権めいた気分があったことは確かだ。
 三人一緒に教室を出て、階段を降りようとしたところで、ちょうど歩いてきた担任に呼び止められた。
「おい、今宮。何してるんだ。打ち合わせ、始まってるぞ」
「あ!」
 俺は生徒会の書記をやっていた。おババさんのクレープ話に心を奪われ、集まりをすっかり忘れていたのだった。
「どうしよう」
 俺は二人を交互に見つめた。俺としては、どうしてもクレープのほうに行きたくて、二人が強引に俺を連れて行ってくれないかと期待したのだが。
「打ち合わせに行けよ」
『ポリス』は俺の背中を押してきた。
「先に行ってるぜ。終わったら連絡くれよ。あの店、けっこう並ぶからさ、遅れてきたらちょうどいいかもしれないな」
 真新しい携帯電話をズボンのポケットから出してみせて、アツシは片目をつむった。
 そうして俺は、泣く泣く、生徒会室へ向かったわけだ。
 楽しげに階段を降りていく二人の背中を目の端に見て、心底恨めしかった。
 しかし、それを最後に、二人の元気な姿が二度と見られなくなるとは思いもしなかった。
――思うわけがない。思うほうがおかしいではないか。何気ないサヨナラにいちいち最後かもしれないなどと、誰が思うというのだ。


 大学の前期試験が終わった。出来具合はともかく、これで一息つける。
 同じゼミの仲間たちに飲み会へ誘われたが、断った。
「おっさん。ゆっくり休めよ」
 一番仲のいい金髪の青年に肩をぽんぽんと叩かれ、我ながら苦笑した。
 今の俺のあだ名は『おっさん』だ。自分ではそうでもないつもりなのだが、二十歳やそこらの青年たちにしてみれば、一回り以上年上の男は十分おっさんなのだろう。
この二週間、レポートと試験勉強に追われて満足な睡眠がとれず、体力は限界にきている。一刻も早くマンションへ帰り、ベッドに倒れ込みたかった。
 あいにくの雨に、傘を差して正門を出た。マンションまでは自転車で十五分。歩くと倍以上かかるが、雨の中を自転車で帰る元気はなかった。
 正門前の横断歩道でさっそく足止めをくった。信号は青から赤に変わったばかりだ。
 目の前を、雨合羽を着た警察官の自転車が通り過ぎた。
 いい加減止せばいいものを、どうしても警察官を見ると『ポリス』を思い出してしまう。
 思い出はどんどん美化され、今では『ポリス』がかなりの美形だったような気さえする。実際のあいつがどうだったかは、写真を見れば一目瞭然なのだが、それを確認したところで何にもならない。
 あいつはもう戻ってこないのだ。
 行き交う車をぼんやり眺めながら、信号が変わるのを待った。
 コットンパンツのポケットの中で携帯電話が振動した。
 どうせまた実家の母親だろう、と思った。俺が三十をすぎてから、やたら見合い話を持ってくる。今年に入ってからは、件数が激増した。この秋で三十五歳になってしまうというので、焦っているらしい。だが、当の俺はちっとも焦っていない。第一、今結婚しても生活がしていけないではないか。奨学金で大学へ通い、深夜のアルバイトで稼いだ金でぎりぎりの生活をしているのだ。とてもではないが、この状況で二人暮らしはできない。相手が働く女性なら構わないかもしれないが、誰も好きこのんで三十半ばの学生とは結婚しないだろう。
 放っておくと、携帯は静かになった。
 信号が青になった横断歩道を渡った。
 携帯がまた鳴った。
 うんざりしつつ携帯をポケットから引っ張り出してみると、発信者は母親ではなかった。
《アツシ》
 驚きのあまり、うっかり「切」ボタンを押してしまった。
 あわてて、着信履歴からかけ直した。
「よう。久しぶり」
『嘘? 何で出るんだよ!』
 なぜか、アツシは素っ頓狂な声をあげた。
 そのセリフはおかしいだろう。俺がかけ直した電話に、アツシが出たのだ。
「先におまえがかけてきたんじゃないか」
『かけたけど……出るなんて思ってないじゃねえか。平日の三時だぜ? おまえ、仕事中じゃないのかよ』
 昔と少しも変わらない口調と、俺の現状を知らない言葉に、懐かしさと申し訳なさを同時に感じた。
 アツシと最後に話したのは、高校の卒業式の日だ。彼の頭の中の俺は、難関大学の工学部に合格した十八歳のままなのだろう。だから、あとは想像だ。俺がごく普通のサラリーマンにでもなっていると踏んだのだろう。
 確かに、卒業後十年間近くサラリーマンをやっていた。自動車会社で研究者として働いていた。だが辞めた。
「俺、今、大学生なんだ」
『マジ? 何年留年してんだよ』
「違う、違う! 社会人やってから、もう一度大学に入ったんだ」
 少し間があって、アツシは神妙な声で訊いてきた。『何学部?』
 大学名は訊かず、学部だけを訊いてきた。それだけで、彼がずっと拘り続けていたことを知った。まるで頑固親父のようだ。
卒業証書を渡すべくアツシの家に行った俺は、工学部に進学すると伝えた。とたん、アツシは手近にあったものを投げつけてわめいた。
――なんで夢をあきらめるんだよ。
あの一言は、ずっと俺の胸に突き刺さっている。
「法学部だ」
 俺が答えると、電話の向こうで膝を打った音がした。アツシは嬉しいとき、膝を打つ癖がある。
『そっかあ! やっぱ、弁護士目指すんだな』
「なれるかどうかわからないけどな」
『おまえならなれるさ』
 アツシは何の根拠もなしにそう言った。声が弾んでいた。
「『ポリス』も、よく言ってたよ。『今宮ならできる』ってさ。無責任だよな」
 そんな言葉だけ残しやがって、という言葉は呑み込んだ。
 アツシは返事に困ったのか、黙っていた。
 電話をしながら歩くのに疲れてきたので、途中で足を休めることにした。近所の酒屋の軒下に入り、傘を畳んだ。定休日でシャッターが降りた前に、ビールラックが転がっている。ラックの底を上にして、椅子代わりに腰かけた。
「おまえのほうはどうなんだ?」
『どうにもなってねえよ』自嘲気味に嗤った。『最近、思うよ。ただこうして何もなく、無駄に死んでいくのかなって』
「何を言ってるんだ。おまえは絵が得意じゃないか。絵なら、外に出なくても描けるだろ」
『絵か……もうずっと描いてねえな。家の中にずっといると、何も描きたいと思わないんだ。昔みたいに、晴れた日に公園でも行ってスケッチとかできたら、幸せだろうな』
 アツシが休日ごとに画材カバンをかついで出かけていたのを思い出した。モデルになったきっかけも絵だった。公園でスケッチしていたところをタレント事務所の人にスカウトされたのだ。モデルの仕事が忙しくなってからも、美大に進学したいと絵の勉強を続けていた。
 彼の母が言っていた――小さい頃からアツシは飽きっぽくてねえ。でも絵だけは、大好きでね。自分から絵の教室に通いたいって言い出したのよ。モデルの仕事で嫌なことがあっても、絵を描くと忘れられるんだって。
 本当に、アツシは無になってしまったのだろうか。彼の言葉通り、ただ死が訪れる日を待つだけなのだろうか。 まさか、この電話を別れの挨拶にして、死のうとしているのかではあるまいか。そんな考えが頭をかすめて、急に不安にかられた。
「外に……出てみろよ」
 それが無理であることを承知の上で、俺は言った。
 あの日から、アツシは外に出られなくなった。『ポリス』が眠った、あの日から。
『もう十六年経つんだぜ。出られるなら、とっくにそうしてる』
「出てみようとしたことはあるのか」
『あるぜ。何度もな。けど、自分の家を一歩出たら、恐くて一歩も歩けなくなっちまうんだ。失敗するたびに、悲しくなるんだ。今日も久しぶりに出てみようとして、玄関で気分悪くなって……おかしいだろ? もう――』
 死にたい、と言われそうな気がして、俺はあわてて思いついた単語を無意識に口走った。「クレープ!」
 しばらく沈黙があった。
『クレープ?』
 アツシは、まったくわけがわからない様子だ。それもそうだ。俺自身、どうしてクレープなどと叫んでしまったのか見当がつかない。しかし、言ってしまった手前、話を続ける責任がある。「……なーんちゃって」と誤魔化すにしても、先の言葉がクレープでは意味不明すぎる。
「いやあ、おまえと話してたら、クレープでも食べたくなってきたなあ、と思ってさ」
『……だからって、いきなり叫ぶか?』
 ため息が聞こえた。だが、先程までの重たい雰囲気は消えている。
「試験続きで疲れてるもんでな。ちょっとばかり頭がおかしくなってるんだ。気にしないでくれ」
『別に言い訳してくれなくてもいいって。ミヤがおかしいことは、よーく知ってるし?』
 笑い声が聞こえた。
三人でクレープ屋を五件くらいハシゴして、『ポリス』と俺は気持ち悪くなったのに、一人だけけろっとした顔をして俺たちを笑った――あの頃と同じ、軽い調子だった。
「なあ。おまえが言っていた池袋のおいしいクレープ屋は、どこにあるんだ?」
『池袋駅の東口から出て……』説明しかけて、アツシは思い直したように言った。『十六年も前の情報だぜ。今はもうないだろ」
「確か、店主はしわくちゃのババアなんだったよな」
『きっと今頃は、骨になっちまってるんじゃねえのか』
 暴言は相変わらずだ。
俺は店主の顔を見たわけではないから、老婆がどれほどの年だったかはわからない。アツシにしても、老婆の年齢を直接本人に聞いてはいまい。日本人女性の平均寿命は今や九十歳に近づきつつある。その老婆がまだ現役でクレープ屋を元気に営んでいる可能性はあるのではないか。
「一緒に行ってみないか?」
『……無理だ。俺は外に出られないんだぜ』
「やってみなければわからない」
『何度もやった。家族に手をつないでもらって出ようとしても駄目だった』
「俺と一緒なら……俺と一緒なら、出来るかもしれないじゃないか」
『おまえが何だっていうんだ!』
 アツシが何かを蹴り飛ばした音がした。
 彼の言わんとするところはわかる。俺は十六年間、目をそむけてきた。外に出られなくなったアツシと、もう戻らない『ポリス』に。はっきり顔が思い出せなくなる程に美しく歪められた、あの頃の思い出にすがりついて。
 何度かアツシに連絡をとろうと思ったことはあった。しかし、家の中でしか生きられなくなった彼がどんなに変貌してしまったかを想像し、恐くて電話もメールも出来なかった。
「俺たちは親友だ」
 はたして今でもそう呼んでいいのか。俺には自信がない。
「俺たち三人は、ずっと親友だ。そうだろ」
 目を閉じて、『ポリス』に訊いてみた。俺の幻想に美化されたあいつは、頷いてくれたような気がした。
『おまえの思ってる親友は、高校生の俺たちだ』
「ああ……ついさっきまでは、そうだった。けど、おまえが電話をくれたから、十六年分の溝に橋がかかった。ありがとう。俺が臆病だから出来なかったことを、おまえがやってくれた」
『そんなんじゃねえよ。俺は、最後に……』
アツシは言葉をつまらせた。
やはり彼は死ぬ気だったのだ。
俺が出ないと信じてかけた電話に、彼はどんなメッセージを残すつもりだったのだろう。それとも、無言の数秒を俺に聞かせるつもりだったのだろうか。いや、着信履歴だけを残そうとしたのかもしれない。自分がひっそり死に行くことを俺に伝えるために。
「明日、迎えに行ってもいいか?」
『……明日でも、明後日でも、いつでもいい。俺、おまえが来るまでは待ってることにするから』
「わかった。また連絡する」
 電話を切った。
 雨脚はいっそう強くなり、叩きつけるような雨に変わっていた。


 翌日、俺は埼玉のとある病院へ向かった。
 三年ほどまえに改築した病棟は、病院にありがちな陰鬱なイメージとはかけ離れた、明るい印象だ。病室の扉がカラフルだからだろう。
 五0一二。五階でエレベータを降りて、右へ廊下を進み、三番目の病室。
 昨日、あいつの家族に問い合わせて聞いていた通り、黄緑色の扉だった。
『高村秋生』
 ネームプレートを確認した。
 扉を小さくノックして、中に入った。
 狭い病室にベッドが一台。サクランボ柄の掛け布団をかぶって、あいつは眠っていた。パジャマの襟元から、すっかり筋肉の落ちた細い首筋がのぞいている。
 ベッド脇に置いてあった椅子に腰かけ、痩せた手首を握った。
「調子はどうだい、『ポリス』?」
 勝ち気で、それでいて優しさを持っていて、芯の強い奴だった。曲がったことは大嫌いだったし、弱い者いじめは絶対に見過ごさなかった。夢は警察官。そのために、小さい頃から柔道を習っていた。
 透けるように白い肌とまるで生気のない顔を目にして、封じ込めていた記憶が蘇ってくる。
美人ではないが、笑顔が可愛かった。丸顔に大きな目がチワワみたいだと言って、からかうなと怒られたこともあった。
「長いこと来られなくて本当にごめんよ」
 その額にそっと手を置いた。
 反応はない。
「許してくれ、アキ」
 微動だにしない唇に、キスをした。
 額に置いていた手をすべらせ、輪郭をなぞった。顎に触れ、首筋に触れた。指先に傷跡を感じて、手を離した。  こんな風に眠ったままにするくらいなら、どうして彼女の命を奪ってくれなかったのだろう。
 そう思ってしまう自分に嫌気がさす。
「俺、アキのことが好きだった。だから、信じたくなかったんだ。許してくれ」
 彼女の寝顔は、授業中にうたた寝していたときと、あまり違いがないように見える。けれど、軽く頬をつねってみても反応はない。目を覚ます可能性が極めて低い――医師にそう診断された彼女は、もう十六年も眠り続けているのだ。
「これからは、ちょくちょく来るよ。いいよな?」
 彼女が戻らないことを受け入れよう。
 俺たちが親友として再び一緒に歩き出すために。


 病院を出たその足で、アツシの家へ向かった。
 アツシの家は限りなく千葉に近い都内にある住宅地にある。四十坪あるかないかの角地に建てられた三階建ての白い家だ。
 表札の脇に設置されていたドアチャイムのボタンを押すと、間もなく返答があった。
「はい」
 その一声だけで相手がアツシの母だとわかった。
「今宮です。アツシに会いに来たんです」
「話はアツシから聞いています。どうぞあがって」
 昔は断りもなく上がり込んでいたこともある。このようなやりとりをすると、返って気恥ずかしい。
 わざわざ玄関まで出迎えに来てくれた彼女の後ろについて、狭いリビングルームへ入った。この家のリビングは、なぜか三階にある。少しでも見晴らしよく生活したいのだろうか。
「今宮くんが来たわよ」
彼女は部屋の中央に置かれたちゃぶ台に向かって言った。
俺は目を疑った。
ちゃぶ台の上にはリカちゃんくらいの大きさの人形が、きちんと小さな座布団を敷いて座っている。アツシの母は、その人形に向かって声をかけたのだ。
久しく会わないうちに息子だけでなく、母親も病気になってしまったのだろうか。
「あの……おばさん?」
「ごめんなさいね」振り返った彼女は、困ったように頭を振った。「寝ているみたい。今、起こすわ」
 言い終わるかいなかのうちに、彼女は片手をあげて、人形めがけて振り下ろした。彼女の手刀は人形の頭頂部に直撃し、人形は座った姿勢のまま、横に転げた。
「痛えっ!」
 人形がうめき声をあげた。
 俺は耳を疑った。
 今の声、アツシに似ていたような。
「気をつけろよ! 頭が割れたら、どうしてくれんだよっ!」
 人形は自力で体を起こし、両の拳を突き上げた。
 それはまぎれもなくアツシの声で、よく見れば、人形の顔はアツシにそっくりだった。
「これは一体……」
 目眩がした。視界が一瞬マーブル状になって、俺はその場に座り込んだ。
ちゃぶ台の上にちんまりと座っているアツシは、俺を見上げてきた。
「こんなんだからよ。恐くて外に出られないんだ」
 体が小さくなったら声はヘリウムガスを吸ったときのように甲高くなると思っていたのだが、彼の声はいたって普通だ。頭身は昔と変わらず、九頭身くらいある。小さくなっても格好いい男は格好いいままらしい。
冷静に分析などしている自分にはっとした。
「おばさん。よく出来た特撮ですね。騙されませんよ。俺はっ! コノヤローッ」
 俺は頭をちゃぶ台に打ち付けた。
「わあああああ」
 ちゃぶ台が大きく跳ねて、人形もといアツシが悲鳴をあげた。
「何するのおおっ。危ないじゃないのおおおお」
 おばさんの平手が飛んできた。
恐るべし、ビンタパワー。俺の体は、ちゃぶ台を跳馬かわりに飛び上がった。視界がぐるぐるとまわり、俺は背中から床に落ちた。
その衝撃で、ちゃぶ台がさらに跳ねた。
「う、うへえ?」
 アツシが変な声をあげた。
 リビングの大きな窓ガラスが一瞬にして粉々にくだけちり、俺たち三人に襲いかかってきたのだ。
 そんな馬鹿な。いくら俺がちょっくらメタボリック気味になってきたからといっても、俺が転んだくらいで窓ガラスが割れるものか。
「ミ、ミ、ミ、ミヤあっ。助けてくれ!」
 アツシが絶叫した。声が高くなっていた。
それだよ、それ。いい感じだ。ミニマム(注・FFの小人化する魔法)をかけられたら、声が甲高くならなくちゃあな。やっぱそうこなくっちゃ。
「アツシぃいいい」
 おばさんも絶叫した。猛獣の咆哮のようだ。
 アツシは、何者かの手の平の上にいた。
 巨大な手だ。大人の男が三人くらいは余裕で乗れるだろう。
「恐いよー」
 小さな小さなアツシが大きな大きな手の上で震えている。
「息子をどこへ連れて行くのよおおおお」
 おばさんは割れたガラスを素足で踏みつけながらベランダへ走り出て行った。俺もあわててあとを追った。
 と、俺たちの目の前に、巨大な顔がやってきた。
 その顔はしわくちゃだった。肌はかさつき、目はしわにかくれて見えず、唇は不健康な紫色だった。
 強大な彼女は薄手のワンピースを着ていた。
「クレープ!」
 アツシが叫んだ。
「はあ? おまえ、何言ってるんだっ」
 俺は叫びかえした。
 確かに、その巨大な老婆の着ているワンピースの生地はクレープだ。だが、そんな冷静な解説はいらない。
「こいつ、クレープ屋のバアアだっ」
 アツシがもう一度叫んだ。なぜか嬉しそうだ。
 なんだ、そっちのクレープか。だったらそう言えよ。
 バアアンッ。
 ものすごい音がして、廊下へ向かう扉が砕け散った。目に痛いような蛍光色の戦闘服を身につけた男たちが部屋へなだれ込んできた。
「誰ですか、あなたたちっ」
 おばさんが男たちを睨み付けた。
「地球防衛軍です」
 男たちは真顔で答えた。
 巨大な手の平の上でアツシがぽかんと口を開けた。
「地球防衛軍です」「地球防衛軍です」「地球防衛軍です」
 次から次へと隊員が到着し、ほどなくして部屋の中はいっぱいになった。地球防衛軍の押しくらまんじゅうだ。もはや、誰も身動きできない。
 ベランダにもあふれだした隊員たちは、装備したレーザー銃をつかいもせず、押し合いへし合いしている。
 メリメリ。
 ベランダが傾き始めた。
 どうやら、あまりにも沢山の人が乗っているため、重さに耐えきれなかったようだ。
「おい、ふざけんなよ、防衛軍!」
 おばさんは袖をまくりあげ、隊員を一人、また一人と背負い投げて、隣の平山さん宅へ投げ込んでいく。
 しかし、間に合わない。
 落ちる――そう覚悟した。目を閉じた。
 だが、落ちなかった。
 おそるおそる目を開けると、おばさんと俺は、巨大な手の平の上にいた。
 しまった。俺たちまで巨大なバアアの手中にっ? と、パニックになりかけた。
「『ポリス』!」
 アツシの叫び声が遠くに聞こえた。
 俺は、自分を受け止めてくれた巨大な手の持ち主を見上げた。
 つい数時間前に病院で会ったばかりの、『ポリス』だった。
「待たせたね」
『ポリス』はニヤリと笑った。
「『ポリスキーック』」
 巨大な『ポリス』は善良な市民の住宅を踏みつぶしながら、巨大なバアアにむかって突進していった。肩からバアアの懐に飛び込み、バアアを押し倒した。
 それはキックではなく、タックルなのでは?
 俺は壊れそうになる頭で必死にツッコミをいれた。
 それにしても揺れる。巨大ヒーローの手の平は危険だ。ヒーローが歩くたびに、トランポリンの上で跳ねているくらいの高低差が生まれる。衝撃で脳髄が口からはみ出しそうだ。
「参りましたあああ」
 バアアは夕陽にむかって逃げていった。
 アツシを片手に握りしめたまま。
「ア、アツシいいいい」
 おばさんは半狂乱になって泣きわめいた。
「世界の平和のためには、犠牲も必要なんだ。すべてを助けることはできないんだ」
『ポリス』は、すまない、と言った。
 俺はまともな思考力を失っていたため、そんなものなのか、と納得した。
「ミヤ。久しぶりだな」
『ポリス』は俺に微笑みかけてきた。
「一体これは……」
 俺は頭を振った。視界がなぜかモノクロになっている。視覚がイカレたのかもしれない。
「あの日……」『ポリス』は遠い目をした。「おまえを学校に残して、アツシと一緒に池袋に向かった、あの日。駅の構内に一台のトラックが突っ込んできた。トラックの運転手は、八十歳代のババア。トラックには『しばっとクレープ』という店名が入っていた。あの事故で三十人が死に、アツシとわたしだけが奇跡的に生き残った。しかし、体に異変が!」
「アツシいいいい」
 おばさんは俺の隣で、自分の髪を引きちぎりはじめた。
「おばさん。認めてあげてください。アツシは、あのお婆さんにゾッコンなんです」
「いやや! 認めへんっ」
 おばさんは確か、北海道の出身だったはずだが。
「わたしはアツシと約束したんだ。不運にも二人ともおかしな体になってしまったが、それを生かして、アツシの恋を実らせようと。わたしが目覚めるのに時間がかかってしまって、アツシをずいぶん待たせてしまった。ふがいないっ!」
「感動です」「感動です」「感動です」
 防衛軍のみなさんは、部屋でぎゅうぎゅうになりながら拍手を送ってきた。
「おまえが、ミヤがキスしてくれたから、目覚めることが出来たんだよ。ありがとう」
『ポリス』は頬を紅くして言った。
 俺は、ぼんやりと、やはり法学部は辞めようかと思った。
 池袋の事故で犯人(ババア)に無罪を与えた弁護人に失望し、弁護士の道を目指さないことにした俺は、長年かけて法の世界へ戻ってくる気になった。しかし、こんな無法地帯では、いくら法を勉強しても無駄な感じがする。
「『ポリス』……おまえ、もとの大きさに戻れないのか?」
 身の丈十二メートルほどある女に訊くと、彼女は首を振った。
「もう一回キスしてくれたら、戻れるかも」
「……わかった」
 俺たちはキスをした。
 夕陽をバックに、長い長いキスをした。
 どこからともなくクレープの香りがして、アツシとババアのたわむれる声がきこえた。

終わり


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