昔話

 懐かしさに、胸が詰まる。
 新宿オフィス街のとあるビルの地下にある、名前のないバー。情報誌に掲載されたことは一度もなく、近年まれに見る真の「隠れた名店」だ。
落とし気味の照明と店内を流れるゆるやかなクラシック、人よしを絵に描いたようなマスター。
店は二年前と何も変わらない。
女は独り、二人用のテーブル席についた。
毎晩のように彼と過ごした思い出のカウンター席には、若いカップルが座っている。
 「1杯のかけそば」みたいにはいかないわよね。
女は煙草に火を点け、口に持っていこうとして手をとめた。
嫌だわ。あたしらしくない発想。
ふっと笑って、煙草を灰皿に押し付けた。
思いついたように、誰からもらったのか記憶にないエルメスのバッグから、MDプレーヤーを引っ張り出す。時代遅れの角ばったデザインと、サインペンで書かれた几帳面な文字。
To Sayoko from Yusuke
女が二十二の誕生日にもらったものだ。
「馬鹿よね」
 男は女の作り話を信じきっていた。
 ――あたしね、テープレコーダーをポケットにしのばせて、街や遊園地、地下鉄なんかの音を集めるの。普段自分が聞こえていない風の音とか鳥のさえずりとか、本当にびっくりするくらい沢山の声が聞こえてくるのよ。
 男のくれたMDプレーヤーは、録音機能がついている。
 ――ぼくはプレゼント選びが苦手なんだ。散々迷って、君の話を思い出したんだ。気に入ってくれるといいけど。
「馬鹿よ」
 あれから数え切れない音を、集めた。
 ラベルにはどれも彼の名が残っている。
 四月二日、真木さんと。真木さんと水族館で。真木さんの下手なカラオケ。真木さんと――。
 忘れるために全て押し入れの奥にしまい込んである。そうすれば、いつの間にか押入れに閉まったことさえ思い出せなくなるだろうと期待して。
今プレーヤーの中に入っているMDは、すでに廃れたヒットソングのシングルコレクションだ。ダビングしただけで、ほとんど聞いていない。ラベルもシールを貼ったきり、真っ白なままだった。
ペンを探したが、あいにく持っていなかった。仕方なく、化粧入れからアイブロウペンシルを取り出し、タイトルを書き込んだ。
「昔話」。
 録音用のマイクをつないで、MDの電源を入れた。モードを切り替えて、録音の赤いランプを光らせる。
「真木さん。昔話でもしましょう。聞いていてね」
周囲の客に変な疑惑をもたれないように、MD本体は煙草用ポーチに隠すことにした。ほんのわずかに開けたチャックの隙間に、外へ向けたマイクを置くのだ。
 確認するまでもなく、録音が出来ていることはわかっている。彼とよくつかった方法だ。
 ポーチから出した煙草とライターは無造作に鞄に投げ入れ、ポーチのほうはテーブルの隅に置いた。
 ちょうどそのとき、目の前に真っ青なカクテルが置かれた。
「おひさしぶりですね、沙代子さん」
 顔を上げると、マスターの微笑みがあった。
「覚えていてくださったの? 急な転勤で大阪に行くことになって、お別れもいえなかったものだから、忘れられて当然だと思っていたのに。嬉しいわ」
 沙代子は口元をほころばせた。
「ずっとお待ちしておりましたよ。今日いらっしゃるとうかがっていれば、いつもの席をお空けしていたんですがね……」
「あら、そんなこといいのよ。このカクテル、『サヨコスペシャル』ね? 真木さんが『サヨコスペシャル』くださいって大声でいったの、思い出しても恥ずかしいわ」
 沙代子は頬に手を添えて、首をすくめた。「今日ね、真木さんたら忙しくて来られないんですって。はやくマスターに会いたくて一人で来てしまったこと、秘密にしてくださるかしら。『沙代子が東京に戻ってきたら二人で行こう』って約束だったから」
「かしこまりました。今度お二人で『久しぶり』に来てくださるのを楽しみにしておりますよ」
「ありがとう」
 沙代子は両手を合わせ、軽く会釈した。
 マスターがまたカウンターへ戻っていくのを見送りながら、つぶやく。
「真木さん。真木さんの紹介してくれたこのお店、本当に素敵だね。二年前と全然かわらないよ」
 女はグラスを見つめた。
「あたしも二年前と同じ。自分を偽ってばかり」

「真木さんとすごした半年間は夢のようだった。考えてみれば、始まりも嘘みたいだったわ。いきなり後ろから肩を叩かれて、『ハンカチを落としましたよ』だもの。今時少女漫画でもないんじゃない。しかも真木さんたら、あたしにお礼を言われて照れくさそうに、『気をつけてくださいね』って後ろ歩きで去っていこうとしたわ。階段が迫ってるのに。危ない、と思ったときにはもう、真木さんは派手に階段を転がり落ちていってた。本当にドジよ。
 あわてて駆け寄ったあたしに、あなたは頭をかきながら言ったわね。
『ぼく、いつもこんな調子なんです』
 びしっとスーツを着こなして、髪もさっぱりセットして、階段を転がり落ちるなんて、あたしの嫌いなタイプのはずだった。なのに、あたしも笑ってたわ。
『気をつけてくださいね』
 帰りを急ぐ夜の新宿駅で、あたしたちだけ別世界にいるみたいだった。偶然帰る方向が同じだったから、一緒に電車に乗り込んで、なんとなく自己紹介したわね。
 真木雄介。大手生命保険会社の営業マン。年はあたしより四つ上。全部事実だったね。
 でも無意識にあたしの口をついて出たのは、嘘。
『谷中沙代子。料理学校のアシスタントをしているの』
 真木さん、疑いもしなかった。
 確かに料理は得意だけど、アシスタントなんてしたことないのにね。あたしは気分がよくなって、でっちあげのエピソードを話してた。だって、その日限りで会うことはないと思ってたもの。
 あの日はね、高校の同窓会をホテルでやったの。だから、めったに着ないような上品で控えめな服装だった。化粧もお嬢様ぽかったでしょ? そう、すでに旧友を騙した帰りだったのね。それで、自然と嘘つきになっていたんだわ。
 きっかり一週間後、また新宿駅でばったりあってしまって、心臓が飛び出そうになった。だってあたし、仕事に向かう途中だったんだもの。いつも通りバサバサのつけまつげして赤い口紅をひいてた上に、やたら高価なアクセサリーで身をかためていたあたしは、がらっと印象が違ったでしょうね。
 あたしは怖くなって、先手を打ったの。
『ねえ、聞いて! 私、今日ダンスの発表会でね、初めてほめられたのよ!』
 嘘に嘘を重ねていくことがあんなに罰が悪かったのは、相手が真木さんだったから。
 あなたがまたすっかり信じ込んで、微笑んだから。
 ダンスっていえば、派手でもだませるって思ったの。あたし浅はかでしょ?
 でもね、一年前からダンスを習い始めたのよ。ちっぽけな教室なんだけどさ。真木さん、一緒に踊ってくれる? ……知ってるよ、真木さんがリズム感ないの。
 なんだかしんみりしてきちゃったわ。サヨコスペシャルを頂こうかしら」

 女がカクテルグラスを取り上げたのと入れ違いに、コトリとワイングラスがテーブルに置かれた。同時に、男の声が降ってきた。
「ご一緒してもよろしいですか」
 ぱりっとしたスーツを着込んだ三十前の男だった。ファーストフードの店員が浮かべるような、度が過ぎた笑顔。
「え、ええ、構わないけど……」
 女は戸惑いを隠せなかった。
 長年嘘にまみれた世界を生きてきた女は、直感で相手が自分よりの人間か否かはわかる。つまり、相手が正直者か、そうでないか。男は後者だった。
「谷中沙代子さん。やっと現れてくれましたね」
 男は向かいに座るなり、笑わない瞳で女を見据えた。「いや、メグミさんとお呼びしたほうがいいのかな」
「……」
 女は買うカクテルグラスを脇へおき、テーブルの上の組んだ腕をのせた。相手を上目遣いににらむ。
「あたしねえ、一度会ったお客さんの顔は忘れないの。あんた、誰?」
「おっと、警戒しないでくださいよ」
 警戒しないほうがおかしいのだが、男は悪びれない。
「それに、私は風俗に行ったことはありませんよ。かわいい妻がありますしね」
「あんた、誰?」
 女は繰り返した。組んだ足のつま先で相手のすねをなぞる。
 男は口の端を曲げ、女の足を軽く蹴り払った。
「真木の友人の佐藤です」
 ジャケットの内ポケットから、よれた白い封筒を取り出し、テーブルの上をすべらせて女に渡す。はがれかけた切手には消印が押されていない。
「真木は口下手なヤツですから。あなたに手紙で伝えるつもりでいたようです。投函できなくて残念だったにちがいない」
 女は封筒から便箋を取り出して、目をみはった。白い封に浮かぶ淡い朱の斑点と雨にうたれた痕が律儀な真木の文字を乱している。
「あいつは、二年前に亡くなりました」

  沙代子へ
 真実を打ち明けてくれてありがとう。同時に、あなたに半年も嘘をつかせる苦しみを与えてしまった、ぼくの不甲斐なさを悔やみます。
「私は新宿の風俗嬢メグミなの。お店のナンバーワンなのよ。とんでもないでしょう? あなたみたいなまっとうな人生を生きるひとと一緒にはなれないわ。だましていてごめんなさい」
 結婚を申し込んだぼくに、あなたはいった。そして走って逃げていったね。ぼくは必死においかけたけれど、見失ってしまった。そのとき、ぼくがどんな気持ちだったかわかる? 絶望というほかなかった。
   携帯電話に何度も電話した。着信拒否されるだろうと思って、公衆電話からかけてみたりもしたんだよ。そうこうしているうちに、あなたは携帯を解約してしまった。
 どうしていいかわからなかった。ぼくはあなたの家に行ったこともないし、お友達を知っているわけでもない。だからといって、なにも動かないでいるとおかしくなりそうだった。
ぼくは、とうとう夜の新宿にむかった。あなたの写真片手に、かたっぱしから風俗店を覗いてまわった。客引きの女の子にも聞いてしまって、その店の男性店員に突き倒されることだってあった。それでも、あなたにもう一度あえるなら、平気だった。だから、あなたの店を発見するのにいくら時間を費やしたかは覚えていない。夢中だったんだ。
歓楽街でもひときわ目立つ高級店に、あなたの写真があった。魅力的な写真だった。沙代子がみせてくれる表情と全然違っていて、思わず食い入るようにみつめてしまったよ。その様子をみていた女の子が、ああ、確かネイさんとかいっていたような気がするんだけれど、とにかく彼女が、「メグなら今日はお休みよ」と教えてくれた。ぼくは不覚にも泣いてしまった。二度と会えない不安に押しつぶされそうだった。
ぼくが握り締めていた沙代子の写真に気がついたんだろうね。彼女は言ったよ。
「……あなた、もしかしてマキさん?」
 うなずくと、ネイさんはぼくを裏へ引っ張って行った。
あなたとネイさんが親友だということ、あなたがぼくの話をネイさんに嬉しそうに話していたことを聞いたけれど、何よりもショックだったのは、あなたはもう一つ秘密を抱えていたということ。
「メグはバツイチなのよ。くだらない男にほれ込んで、高校中退してかけおちしたらしいの。そんでさ、子供ができたらあっさりポイよ。おろすか産むかなんて話が出る間もなく、追い出されたんだって。福岡の実家にも戻れないし、一人でなんとかやってこうとしたみたいだけど、そんなん無理よね。働きつめがたたって、流産しちゃってさ、もう妊娠できない体になっちゃったのよ。ねえ、これだけいえばわかるでしょ? 堅実な生活送ってるあんたの人生を汚したくないっていう、メグをわかってあげてよ。いくら両想いだってね、うまくいくとは限らないの。ね、頭のいいマキさんならわかるでしょ」
 つまり、あなたがぼくを清廉潔白な人間だと信じきって、過去を隠していたのだということ。
 ぼくのほうこそ、あなたより先にいうべきことがあったのに。ぼくは過去から逃げ続けているんだ。そう、そんなぼくがあなたを受け止められる男になれるわけがなかった。自分の否に目を背け、ただただあなたに戻ってきてといっても、かなうはずがない。
 ぼくは過去と向き合ってこよう。
 ぼくはある女性を不幸にしてしまった。いまさら、といわれてもいい。彼女に、会ってくることにするよ。だから、ぼくが戻ってきたら、せめてもう一度だけ会えないだろうか。連絡をまつよ。
雄介


 便箋を持つ手が震えた。
 書面から顔をあげた女は、佐藤の貫くような視線にもかまわず、半ばとりみだしていた。
「真木さんはなぜ死んだの?」
「知りたいですか」
 佐藤は不適に笑った。
 女はごくりと生唾をのみこむ。
「話は何年も前にさかのぼりますが、あいつは大学の友人の恋人を奪ったのです」
「真木さんは……」
 そんなことをする人にはみえなかった、といおうとした女を遮って、男は話をすすめた。
「相手は純粋な女でしたよ。彼以外の男を知らなかった。あいつは、友人の恋人を汚したんです。もちろん、友人の怒りは相当なものでした。危機感を抱いたのか、あいつは自分だけ逃げ出しました」
「そう……」
「あいつが姿をくらましてから五年、その友人は恋人との関係を立て直し、やっと二年半前に結婚したのです。どういうことかわかりますね」
「結婚生活半年の夫婦のところへ、昔の傷である男がふらっと謝罪にきたってことよね?」
「その通り。友人はあいつを許さなかった。もみあいになった末、あいつは友人の恋人に刺し殺された。『また私たちの愛をひっかきまわすの? もうやめて』とね」
「そんな!」
 ニュースになってもよさそうな事件ではないか。真木雄介の死亡記事を知らずに生きてきた自分をおもうと、女は唇をかみしめずにはいられなかった。
「友人は、死体の荷物から手紙を発見しました。そして悟ったのです。こいつは自分の目先の幸せのために、過去の罪をなきものにしようとしたのだ。殺されて当然だった、自分の行いは正当であったのだと」
「それはおかしいわ。真木さんは――」
 女は息をのんだ。額に冷たい金属がつきつけられたのだ。男はよどんだ目を潤ませる。
「そういうと思っていたとも! 私はお前もゆるさない! あいつに心から愛された女がこの世に存在するなど、あってはならない。汚された妹があまりにも不憫だ」
「……その女の子、あんたの妹なんだ……。ふん、たいした兄妹愛だわ。あたしを殺すために、ずっとこの店ではっていたのかしら? ご苦労様。あんたが待ちぼうけしていた二年間ね、あたしは真木さんを忘れるために、じぶんから大阪へ行ったわ」
 女はまぶたをとじた。「気がついたら、また風俗やってたの。なにもかわんなかったわ。二年間恋なんてひとつもせず、偽りの恋を商売にしてきた。あまりに悲しいから、ダンスだけは始めたわ。でもね、お店がつぶれちゃって、やっぱりこれを機に生活やりなおそうと思ったの。
 真木さん、あなたとすごした思い出の店で、あたらしいスタートを切りたかったのよ」
 引き金がひかれた。
 店内に悲鳴と男の笑い声が響き渡った。



 以上ですか?
 ……あの日、雄介さんがやってきたとき、本当にこの目を疑いました。あんなに逃げてといったのに。私たちは二度と会ってはいけないし、雄介さんと兄が会うなんてとんでもないことです。
 雄介さんがきたのは、こんな理由があったからなんですね。私は今の今まで何もしりませんでした。
 雄介さんですか? ああ、うちの庭に埋まっているんじゃないでしょうか。キンモクセイの木の根元あたりです。私が兄の息の根を止めたら、絶対あの木の下に埋めてやろうと思っていたところに、皮肉にも雄介さんがいるんです。涙すらでません。
 もみあっている二人にそっと忍び寄って、兄を刺すつもりでした。あんなチャンスはないですから。兄の無防備な背中に包丁を突き出しました。
 雄介さん、馬鹿な人だわ。兄をかばって、自分が刺されてしまうんだもの。
「きみは人殺しになってはだめだ!」
 雄介さんの最期の言葉です。
 でも私は人殺しです。だって、兄は殺さなかったけれど、最愛のひとを刺してしまったんですもの。
 このMD、『昔話』ってタイトルなんですね。
 こんな悲惨な記録じゃなくて、沙代子さんと雄介さんの思い出をもっと聞きたかったわ。
 私ずっと雄介さんに幸せになってほしいと願っていたんですよ。私のことなんか忘れて。だから、ほんのわずかな間でも、二人が幸せだったのだけが救いです。
 ごめんなさい、雄介さん。
 ごめんなさい、沙代子さん。
 マスター、『昔話』を警察に証拠品として提出する前に聞かせてくれてありがとう。私、兄をさがします。
 妻だなんておぞましい、ききたくもない。私はただの妹です。妹として、兄を殺します。
 それでは。


終わり


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