三秒の恋

 お前は人生の脱落者だ。
 エリートで挫折を知らない父は、始終ぼくをなじった。
 学校から逃げられれば、少しは楽になると思ったのに、家庭にもぼくの居場所はなかった。
 唯一助け舟を出してくれそうだった母も、かけてくれた言葉はたった一言。
 信二、お願いだから高校に戻ってちょうだい。
 死ね、といわれたようなもんだ。
 いっそ死んでしまったほうが、良かったのかもしれない。あの世へ行って、ぼくみたいな「みっともない息子」とは比べ物にならない「優秀な息子」だった健一兄さんを、この世へ呼び戻してやるんだ。そうすれば、ぼくはせめてもの役には立てたことになる。
 でもね、そんなことは無理なんだ。
 だってぼくは知っている。
 兄さんが本当は、父の重圧に耐えかねて、わざと足をすべらしたんだってこと。  地元の駅の長ったらしい階段を上から下まで落ちて、うまいぐあいに頚椎を骨折する。
 兄さんとぼくは綿密な下調べをしたもんさ。
 残念ながら、ぼくにはそんな勇気はない。
 考えた末、ぼくは郵便貯金をおろして、近所の小さな映画館の年間パスポートを買った。一万円で三百六十五日観られるなんて、安いもんだ。
 開館から閉館まで、ぼくは映画を観続ける。
 今日も。明日も。明後日も。
 同じ映画をうんざりするぐらい繰り返し観る。
 おかげで、すっかり字幕なしで洋画を楽しめるようになった。リスニングの力がついたらしい。
 毎日映画館へ通うぼくを、両親は無視していた。
 それでも、ぼくの退学届けは高校へ提出されずに、母のたんすの上で埃にまみれていった。あれから五年たった今でも、ひょっとしたらまだ放置されているかもしれない。

 あの日も、がらんとした映画館でポップコーン片手に映画を観ていた。映画の日でもレディースデイでもない平日の朝なんて、ほとんど貸しきりだ。
 封切られてから一週間もたっていないのにもう十二回も観たその映画は、B級だったけれど、ぼくの生涯で最も忘れることの出来ない一作になってしまった。
 エンドロールが流れ終わって、館内の明かりが灯ると同時に、静かにスクリーンにカーテンがひかれていった、あの瞬間。
「よお」
 とん、と後ろから肩を叩かれた。
 振り返って相手の顔をみたとたん、フルネームより先に思い出した、彼女のあだ名。
「じょ、女王!」
 土屋春奈。彼女はぼくと同じ三年C組の女子生徒だった。頭脳明晰、スポーツ万能、おまけにぱっと目を引く美人と完璧すぎた。そんでもって、女子にありがちなグループ派閥には目もくれず、彼女に告白した男子をことごとく振って、それでもいつもクラスの中心で輝いていた。
開校二十年目にして初の女子生徒会長に選ばれた二年の秋辺りから、「女王」と呼ばれ始めたのも、決して彼女が傲慢だったとか人使いが荒かったからとかじゃない。みんな、純粋に彼女を尊敬していたんだ。
「佐山んち行ったら、おばさんがここだって教えてくれたからさ。ついたら映画がちょうど始まるとこだったんで、なんとなく一本みちゃったじゃないか」
「何? ぼくに用なんかあるの?」
 彼女と対極の人間であるぼくは、半年同じクラスにいたくせに、会話をしたこともなかった。今思うと、なんてもったいない半年だったんだろう。
「佐山さあ、学校は苦しいだけだった? 楽しいことなんか一つもなかった?」
「……」
 女王までもが「学校へ戻れ」という気か、とぼくは沈黙を返した。たとえ女王命令でも、二ヵ月離れた学校へ帰るつもりはさらさらなかった。
「そか」
 彼女は、ぼくの隣の席の背もたれに、組んだ腕をのせていた。二人の構図はぎこちなくて、居心地が悪かったのを覚えている。
「私は辛いことも沢山あったけど、楽しかった。高校へ行ってよかったと思ってる」
 微笑して、腕の上にあごをのせる。彼女の長い髪がたれて、ぼくにかかりそうで気が気ではなかった。
「とくにね、三年になってからは、毎日教室へ行くのが楽しみだった。土日があるのが悔しいくらいに」
「……ぼくは」
 なぜか、口をついて出た。「三年で下田が担任になりさえしなければ、まだ学校へ行っていたと思う。あいつのせいで……」
 しかし、それ以上言うのはためらわれた。
 授業中、下田がぼくをネタに大爆笑をとった事件は、思い出したくもなかった。
『俺はおまえの命の恩人だからな。つくせよ!』
「でもさ、下田がいなかったら、溺れ死んでたかもよ?」
「そのほうがマシだったね!」
 ぼくは金槌だ。
 だからといって、水泳に時間にプールで溺死しかけたなんて情けない。しかも、下田はそれを各クラスで広めてくれた。
『俺が人工呼吸して、お姫様を救ったんだ』
 吐き気がした。
 よりにもよって、お姫様だなんて。
「簡単に死んでいたほうがマシっていったりするもんじゃないよ」
 女王にたしなめられて、姫であるぼくはうつむいた。
「私は、佐山に『学校へ戻れ』って言いにきたわけじゃないんだ。ただね、後悔はしたくない」
 彼女は突然、ぼくに覆いかぶさるように、身を乗り出してきた。
「三秒、目を閉じて」

 彼女は、ぼくのまぶたにキスを残した。
「ずっと好きだった」という台詞も。
 何がなんだかさっぱりわからなくなって、ぼうっとしている間に、彼女は去ってしまった。
 三日たってやっと、これはひょっとしてすごいことなんじゃないかって実感がわいた。
 連絡網をひっぱりだして、土屋春奈と最も仲のよさそうにみえた女の子、立川に電話した。彼女の自宅の場所を聞き出そうと思ったんだ。けど、それは失敗に終わった。
「佐山君?」
 立川はなぜか受話器の向こうで泣き出した。「あと数ヶ月で卒業なのに、なんでこなくなっちゃったのよ! お姫様って呼ばれたってなんだっていいじゃない」
 ちなみに立川とも言葉を交わすのは、それが初めてだった。
「春奈は、佐山君が好きだったんだよ。覚えてないかもしれないけど、一年のとき、春奈が先輩にからまれて困ってるのを助けてあげたでしょ? あれからね、ずっとなの」
 ぼくは気弱で金槌にもかかわらず、父に無理やり習わされたおかげで空手は有段者だ。でもまさか、女王を助けていたなんて、全然記憶になかった。
「三年で同じクラスになれて、ホントに喜んでた。『あと一年頑張れる気がしてきた』って」
「頑張れるって……」
 なんだ、それ。言おうとして、立川にさえぎられた。
「春奈ね、ガンの末期だったの。症状が悪化して、通学も辛かったのに。頑張ってた。大好きな佐山君と一緒に卒業したいって」
「そんなん、知らないよ!」
「わかってる。春奈の一方的な想いだもん。だけど、だけど」
 立川はそのまま泣き崩れて、しゃべれなくなってしまった。
 ぼくが電話をした日の深夜、女王は病院で息をひきとった。あまりにも急だった。目を閉じればまだ、まぶたに彼女のキスを感じるのに。

 十二月二日。
 今日は、土屋家に向かう。
 駅前の花屋で、女王にふさわしい花束をつくってください、とお願いした。お仏花は味気ないし、土屋春奈の花の趣味はわからない。なにより、ぼくは花の名前も意味も全く知らないから。
 仏壇に飾られた彼女の写真は、素晴らしい笑顔だ。
 ぼくも、そんな笑顔が残せるまで、恥ずかしくて君にあわす顔はないよ、女王様。

終わり